「先生、どこまで見守っていていいんでしょうか」
拒食症のお子さんをもつご家族から何度も聞いてきた言葉です。
あるお母さんは、娘さんに食事のことを尋ねるのをやめていました。
以前は、「今日は何を食べたの?」「もう少し食べた方がいいんじゃない?」と声をかけていたそうです。
けれど、そのたびに娘さんは不機嫌になり、ときには「もう放っておいて」と部屋に閉じこもってしまう。
心配して言っているのに、声をかけるほど関係が悪くなっていくように感じる。
それなら、本人の意思を尊重した方がいいのではないか。
そう考えて、食事についてはなるべく触れないようにしたそうです。
「本人ももう大人ですし、私が口を出しすぎてもいけないと思って。今は見守るようにしています」
そう話す一方で、お母さんは娘さんの様子をずっと気にしていました。
冷蔵庫を開けると、昨日買ったものがほとんど減っていない。
夕食の時間になっても部屋から出てこない。
顔を見ると、以前よりまた少し痩せたような気がする。
「でも、聞いたら嫌がると思うと、何も言えなくて……」
そして、こう続けました。
「見守るって、どこまで何もしないことなんでしょうか」
「本人を尊重すること」と「必要な支援をしないこと」。
その境目は、思っている以上に難しいものです。
特に拒食症では、「本人が嫌がっているから介入しない」と簡単には言えない場面があります。
では、「見守る」とは何なのでしょう。
そして、「放置」とは何が違うのでしょうか。

上畠 真紀
公認心理師、精神保健福祉士
経験
18年以上のカウンセリング経験(精神科・心療内科)
専門分野
摂食障害、気分障害、トラウマ、対人関係
「本人の意思を尊重する」だけでは難しいことがある

拒食症のご本人から、
「大丈夫だから」
「食べているから心配しないで」
「病院には行きたくない」
「体重のことは言わないで」
と言われると、ご家族としては迷いますよね。
本人の気持ちを尊重したい。
無理強いをして関係を壊したくない。
これ以上追い詰めたくない。
その思いはとても大切なものです。
一方で、拒食症は、低栄養の状態が続くことによって身体に深刻な影響が及ぶことがあります。病気の影響によって、自分の身体の状態や危険性を十分に認識することが難しくなっている場合もあります。
そのため、本人が「大丈夫」と言っていることだけを基準に、すべてを本人に任せることが適切とは限りません。
これは、本人の意思を無視してよいという意味ではありません。
むしろ、本人の意思を大切にすることと、命や身体を守るために必要なことをすることを、両立させて考える必要があります。
ここが、拒食症の家族支援の難しいところの一つだと感じています。
「見守る」が、怖くて何も言えないことになっていないか

先ほどのお母さんのお話をもう少し伺っていくと、少し違うことが見えてきました。
お母さんは、娘さんを信頼してすべてを任せようとしていたというより、
「何か言ったら、もっと悪くなるかもしれない」
「また怒らせるかもしれない」
「私のせいで食べられなくなったらどうしよう」
という怖さを抱えておられました。だから、声をかけられなくなっていたのです。
もちろん、何も言わずに待つことが必要な場面もあります。
けれど、「今は声をかけずに待とう」と考えて待っていることと、怖くて関われなくなっていることは、同じではありません。
外から見ると、どちらも「何もしていない」ように見えます。
でも、その内側はまったく違います。
私はご家族のお話を伺うとき、「何をしたか」だけでなく、なぜそうしているのかを一緒に考えることがあります。
「本人に任せています」という言葉の中に、本人を信じる気持ちがあるのか。
それとも、どうしたらいいかわからない怖さがあるのか。
そこを見ていくことで、必要な関わり方が少しずつ見えてくることがあります。
反対に、「見守る」が監視になってしまうこともある

もう一つ、反対方向の難しさもあります。
あるご家族は、「できるだけ娘を見守るようにしています」と話してくださいました。
けれど詳しく伺ってみると、
朝食をどのくらい食べたか確認する。
外出すると「何か食べた?」と聞く。
お風呂に入っている時間が長いと気になる。
少し元気がないと、「また体重が減ったんじゃない?」と心配になる。
お母さん自身も疲れ切っていました。
「見ていないと、何か起きる気がするんです」
その言葉が、とても印象に残っています。
そこにあるのは、娘さんを管理したいという気持ちよりも、大切だからこそ目を離すのが怖いという思いでした。
食べなかったらどうしよう。
また痩せたらどうしよう。
倒れたらどうしよう。
そんな不安が大きくなると、家族はどうしても確認したくなります。
けれど、ご本人からすると、その一つひとつが「ずっと見張られている」「食べることしか見てもらえていない」と感じられることがあります。
家族は「見守っている」。
本人は「監視されている」。
こんなすれ違いが起こることがあります。
見守るとは「何もしないこと」ではない

では、「見守る」とは何なのでしょうか。
それは、
必要なときに手を差し伸べられるところにいながら、その人が自分でできる部分まで奪わないこと
なのではないでしょうか。
例えば、転びそうな人のすぐ横を歩く場面を想像してみてください。
ずっと腕をつかんで歩けば、転ばないかもしれません。
けれど、それでは本人が自分でバランスを取る機会まで奪ってしまいます。
だからといって、「自分で歩けると言っているから」と遠くへ行ってしまえば、転んだときに支えることができません。
すぐ手の届くところにいる。
でも、必要がないときには手を出しすぎない。
そして、本当に危ないときには手を出す。
見守るというのは、そんな距離の取り方に少し似ているように思います。
もちろん、実際の拒食症の支援はこれほど単純ではありません。
「どこまで本人に任せられるのか」は、年齢、身体状態、低体重の程度、治療状況、本人の理解、家族関係などによって変わります。
だからこそ、「見守る=何もしない」と決めてしまうのではなく、今はどのくらいの距離が必要なのかを、その都度考えていくことが大切です。
本人に任せてよいことと、家族だけで判断しない方がよいこと

ここは、拒食症のご家族には特にお伝えしておきたいところです。
食べる・食べないをめぐって毎回家族が説得したり、体重を細かく確認したりすることが、必ずしも回復につながるわけではありません。
一方で、拒食症では身体の状態によって、本人が「大丈夫」と話していても、医療的な対応が必要になることがあります。
そのため、身体的な心配がある場合には、ご本人やご家族だけで「もう少し様子を見よう」と判断せず、医療機関に相談することが大切です。
つまり、本人のペースを待つことが大切な場面もあれば、身体の状態によっては、待たずに対応する必要がある場面もあるということ。
そして、その境界をご家族だけで判断する必要はありません。
「どこまでは本人に任せてよいのか」
「どのような変化があったら医療機関に相談した方がよいのか」
こうしたことをあらかじめ主治医などと共有しておくことで、ご家族が毎日一人で判断し続ける負担も少し減るのではないかと思います。
「待つ」ことも、ひとつの関わり方

カウンセリングをしていると、ご家族から、「今は何もできていません」と言われることがあります。
でも、お話を聞いてみると、本当に何もしていないわけではないことがよくあります。
本人が話したくなさそうなときには追いかけずにいる。
でも、必要な通院は続けられるように支えている。
食事のたびに問い詰めることはしない。
でも、身体状態の変化には気を配っている。
本人から話しかけてきたときには、すぐに答えを出そうとせずに聞いている。
これらは、「何もしていない」のではありません。
待つという関わりをしているのだと思います。
待つということは、決して簡単なことではありません。
何かした方がいいのではないか。
このままで大丈夫なのか。
そんな不安を抱えながら、すぐに手を出したくなる気持ちを抱えたまま待つことには、思っている以上のエネルギーが必要です。
だから私は、「何もできていない」と話すご家族に対して、本当にそうなのだろうか、と一緒に振り返ることがあります。
目に見える行動だけが支援ではありません。
そばにいながら待つことも、大切な関わりの一つです。
家族自身の不安が大きくなったとき

拒食症の方をそばで支えていると、ご家族自身の不安も大きくなります。
何か言うべきだろうか。
黙っていた方がいいだろうか。
このままで大丈夫なのだろうか。
こうした迷いが続いていると、本人のことを思って声をかけているつもりでも、いつの間にか、自分自身の不安を少しでも和らげるために声をかけていることがあります。
だからこそ、本人との関わり方だけではなく、
「私は今、どんな気持ちから、この言葉をかけようとしているのだろう」
と、ご自身の内側にも少し目を向けてみてほしいと思います。
それだけで、声をかける前にほんの少し間が生まれることがあります。
その間が、本人との距離を調整する助けになることがあります。
見守る距離は、いつも同じではない

見守るための「ちょうどいい距離」は、一度決めたら終わりではありません。
昨日は一人でできたことが、今日は難しいかもしれない。
少し状態が安定している時期には本人に任せられたことも、体重が落ちたり心身の状態が悪化したりすれば、より積極的な支援が必要になることがあります。
反対に、回復していく中では、家族が担っていたことを少しずつ本人に戻していく時期もやってきます。
だから、「見守るべきか、介入するべきか」を二者択一で考えなくてもよいのだと思います。
近づくときもある。
少し離れるときもある。
声をかけるときもある。
あえて待つときもある。
その時々の本人の状態を見ながら、距離を調整していく。
私は、家族支援ではこの「調整する」という感覚がとても大切だと感じています。
「見守る」と「放置」を分けるもの

では結局、「見守る」と「放置」は何が違うのでしょうか。
その違いは単純に「何かしているか、何もしていないか」ではありません。
見守るとき、関心は途切れていません。
本人が今どんな状態なのかを気にかけながら、必要以上には踏み込まない。
そして、本当に支えが必要になったときには近づける準備がある。
一方で、関わることが怖くなり、本人の状態が見えなくなっている。
あるいは、身体的な危険があっても「本人が嫌がるから」と必要な支援につながらない。
そうなっているとしたら、「見守る」という言葉の中で、家族だけが抱え込んでしまっていないか、一度立ち止まって考える必要があります。
先ほどのお母さんも、その後すぐに「正しい距離」がわかったわけではありません。
「今日は聞かない方がよさそう」
「これは聞いておいた方がいい」
「ここは私が判断せず、先生に相談しよう」
そんなふうに、一つひとつ考えるようになっていきました。
そしてあるとき、「前は、声をかけるか、何も言わないかの二つしかないと思っていました」と話してくださいました。
その言葉がとても印象に残っています。
見守るというのは、遠くから眺め続けることではありません。
かといって、いつも手を出し続けることでもありません。
離れすぎず、近づきすぎず、その時々で距離を動かしていくこと。
その中には、「今日は何も言わずに待つ」という選択もあれば、「今日は嫌がられても動く必要がある」という選択もあります。
その判断を、ご家族だけで背負わなくていいのです。
専門家と相談しながら、その人、その家族に合った距離を一緒に探していくことも、支援の一つです。
そして、こうした距離を考えていくと、もう一つ大切なことが見えてきます。
摂食障害のある家族と暮らしていると、いつの間にか会話のほとんどが、「食べた?」「体調は?」「病院は?」になってしまうことがあります。
けれど、親子や家族の関係は、本来それだけではありません。
次の記事では、摂食障害の家族支援において、病気とは直接関係のない「普通の会話」の大切さについて考えてみたいと思います。

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